監査事例の検討20—会計上の見積り(遡及検討)

事例の概要
 不動産業を営む会社は、固定資産として多くの不動産を保有していた。固定資産の減損の兆候の判定に用いた不動産評価額は、不動産調査報告書(「不動産鑑定評価基準」に基づかない、いわゆる「簡易鑑定」である。)であり、不動産評価額は、テナント収入が織り込まれた事業計画に基づく収益還元法により算出されていた。一部の不動産では、現状の建物だけでなく新たな建物の竣工を前提としたテナント収入が織り込まれていた。
 会社は、数年度にわたって、不動産調査報告書に記載された不動産評価額が、全て簿価の50%超となっていたため、会社は減損の兆候はないと判断し、減損損失を計上していなかった。しかし後日、不動産を売却するたびに多額の売却損を計上していた。
 売却年度またはその前年度の不動産別の明細は、次のとおりであった。
         不動産A  不動産B  不動産C  不動産D
   帳簿価額    1,000     800    2,000    600
 不動産評価額    1,280     650    1,050    400
  減損の兆候      無     無     無    無
   売却価額     600     370     700    290
 監査人は、有形固定資産の評価について、特別な検討を必要とするリスクを識別していた。
 監査人は、不動産評価額の妥当性について、会社が入手した不動産調査報告書の評価を利用して検討を行っていた。しかし、当該不動産調査報告書が「不動産鑑定評価基準」に基づくものかどうかの検討は行っていなかった。
 また、監査人は、不動産評価の基礎となった事業計画が具体的でないとの認識はあったが、取締役会決議があったためそのまま利用した。
 監査人は、自らが専門家を利用して不動産鑑定評価書を入手する必要はないと判断し、専門家の業務の利用に関する検討は行っていなかった。

判明した事項
 会社は、業績の悪化により減損損失の計上を回避していたが、資金繰りの悪化により不動産を売却する必要性が生じていた。

監査上の問題点
 「監査提言集」は専ら過年度の見積りの遡及的な検討(バックテスト)を行っていないことを問題としているが、監査人は、不動産調査報告書の評価額が正しいかどうかではなく、固定資産の売却に関する売却損の正確性等に監査人の関心はあり、評価額と実際の売却価額に乖離があったかどうかまで至っていなかったと思われる。勘ぐれば、減損損失を計上しなくとも売却損によって損失は発現するとして、減損損失の計上に重きを置いていなかったのかもしれない。そうであれば、有形固定資産の評価について、特別な検討を必要とするリスクを識別していたことと矛盾する。
 また、保有不動産の売却が恒常的に行われたならば、当該不動産は売却目的の棚卸資産として計上する必要性(保有不動産の保有目的)を検討すべきではなかったのであろうか。このようなことは「監査提言集」には全く記述されていない。
 監査人は有形固定資産の評価(減損の要否)を特別な検討を必要とするリスクとして識別していたが、当該リスクに対応する監査手続を実施していなかったことが問題である。

監査人が実施すべきであったリスク評価、監査手続等
 監査人は、特別な検討を必要とするリスクを識別していたのであるから、会社から入手した不動産調査報告書が「不動産鑑定評価基準」に基づいて作成されているかを検討すべきであった。
 正式な不動産鑑定書ではない簡易鑑定である不動産調査報告書であれば、監査に利用できないため、監査人自らが専門家を利用して不動産鑑定書を入手する必要があった。それでも専門家を利用する必要はないと判断したならば、その根拠を監査調書に明確に記述すべきであった。また、取締役会決議があったことは、簡易鑑定である不動産調査報告書を利用する根拠、専門家を利用しないことの根拠にはならない。さらに、不動産評価の基礎となっている事業計画の妥当性と実現可能性、不動産評価に用いられている収益還元法の計算の仮定の妥当性と合理性について批判的に検討すべきであった。
 特別な検討を必要とするリスクを識別していたのであるから、不動産調査報告書の評価額と実際の売却価額には大きな乖離があったことを認識すべきであり、大きな乖離が経営者の偏向(バイアス)を示すこともあることから、それが存在する可能性を検討するため過年度の見積りに関する経営者の仮定および判断に対して遡及的な検討(バックテスト)を行うべきであるが、その遡及テストは、毎期の減損処理の不要である検討に際して行うことができたはずである。
 会社の業績の悪化の理由とその改善策および経営環境の著しい悪化による不動産の市場価格(公正価値)の著しい下落の有無についても検討すべきであった。

結論
 本事例は、形式的に特別な検討を必要とするリスクを識別・評価しており、そのリスクに対応した慎重かつ深度のある監査手続が実施されていなかった。それにしても、本事例と同様の事例が多いことは、我が国の監査業界にはリスク・アプローチが浸透していないことの証のように思える。
 ところで、本事例では見積りの遡及的検討が強調されている。会計上の見積りに関する遡及的検討は、監基報540「会計上の見積りの監査」と監基報240「財務諸表監査における不正」において規定されている。
 監基報540では、すべての重要な会計上の見積りについて、「監査人は、当年度の監査のために、前年度の財務諸表に計上されている会計上の見積りの確定額、又は該当する場合には再見積額について検討しなければならない」(8項)として、見積りの確定額との比較または再見積りを行って計上した見積額との比較によって差額が重要でないことを確かめて、当期の見積りを適切に行うための見積プロセスの妥当性の検討に重きが置かれている。
 一方、監基報240では、経営者の偏向が会計上の見積りに存在するかどうかを検討し、偏向の発生している状況が、もしあれば、「過年度の財務諸表に反映された重要な会計上の見積りに関連する経営者の仮定及び判断に対して、遡及的に検討」(31項(2)②)をしなければならないとし、「遡及的な検討を実施する目的は、経営者の偏向の可能性が示唆されているかどうかを判断すること」(A44項)であり、監基報540に規定されている遡及的な検討は「リスク評価手続として行う。実務上、本報告書に記載される経営者の判断と仮定における不正による重要な虚偽表示リスクとなり得る偏向に対する監査人の検討は、監査基準委員会報告書540により要求される事項と合わせて実施される」(A45)としている。
 したがって、監基報240は、会計上の見積りに関して経営者の偏向(バイアス)が存在している(つまり、経営者不正の可能性がある)場合に過年度の見積額を遡及的に検証すること、つまりリスク対応手続として実施することが求められている。
 このように、監基報540と監基報24では遡及的検討(バックテスト)の意味合いが微妙に異なっている。
 本事例では、監基報240の遡及的検討(バックテスト)の必要性が強調されているが、監基報240の遡及的検討(バックテスト)はすべての見積りに求められているわけではなく、経営者の偏向(バイアス)による不正の可能性がある(経営者不正の兆候がある)場合に限定されていることに留意が必要である。
 もっとも、本事例の監査人は、減損の見積りに経営者不正の兆候がある可能性について全く感知していなかったであろうことは容易に推測できる。経営者の誠実性に重きを置きすぎた監査の失敗の典型例である。

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