職業的懐疑心について考える(その10 最終回)

 最終回の今回は、監査人に保持・発揮が求められている「職業専門家としての懐疑心」(professional skepticism)について、鳥羽早大教授稿「監査人に求められる特性は何か」(有限責任監査法人トーマツ)に基づいてこれまで考えてきた私見についてまとめておきます。

私見の要約
 私見では、「職業専門家としての懐疑心」は、不正による虚偽表示の可能性を示すかもしれない状況に注意するという疑問をもつ心構え(a questioning mind)、および監査証拠の批判的な評価から成る態度(ISA 200 para.13 (l))である。この職業的懐疑心は、「虚偽表示の兆候に注意するという疑問をもつ心構え」と「監査証拠の批判的な評価」の二本柱で構成された監査人の姿勢や態度であると解している。
 「疑問をもつ心構え」は、監査の実施に際して監査人が相当高い心証を形成(obtaining reasonable assurance)できているかどうかという疑問を自分自身に投げかけ続けることである。それは、監査チームのメンバーそれぞれが、監査計画の策定・立案、監査手続の実施、入手した監査証拠の評価、形成した心証などの監査のすべてのプロセスにおいて行った判断や監査証拠の評価等を反芻することであり、内省することである。
 この疑問をもつ心構えを突き詰めていくと、入手するまたは入手した監査証拠の評価に行き着くように思われる。つまり、疑問をもつ心構えは十分かつ適切な監査証拠を入手できたかどうかという監査証拠の批判的な評価と同じことのように思える。
 このことは、疑問をもつ心構えと監査証拠の批判的な評価という二つの柱で構成されている職業的懐疑心が、究極的には前者が後者に吸収されてしまう関係となってしまい、監基報における職業的懐疑心に関する記述が監査証拠の批判的な評価になっていることと同じことなのかもしれない。あるいは、Mautz・Sharafが初めて説いた職業的懐疑心の原点からまったく乖離していないということかもしれない。
 なお、私見では、監査証拠とは監査人の心証形成への影響ないし作用するものを言い、監査人による論証や推論を含むと解しているため、監査証拠は監査人の内面に影響ないし作用するものである。したがって、監査証拠の評価は監査人の心証形成そのものであると解している。

 私見の職業的懐疑心を構成する、疑問をもつ心構えと監査証拠の批判的な評価のいずれもが、鳥羽教授の説く「内に向かって働かせる職業的懐疑心」に該当すると解する。したがって、私見の職業的懐疑心は「外に向かって働かせる職業的懐疑心」が該当しない。しかも、監査パートナーやマネジャーを含む監査チーム・メンバーそれぞれが保持・行使しなければならない職業的懐疑心であるため、教授のいう組織レベルの職業的懐疑心にも関連しない。審査担当者や品質管理部門は、職業的懐疑心というより、監査の品質管理の観点から監査チームを管理・監督すると解する。
 私見の職業的懐疑心が鳥羽教授の説くセルⅢの「内に向かって働かせる職業的懐疑心」だけに該当する懐疑心であるにもかかわらず、職業的懐疑心の二つの柱をあえて区分するのは、疑問をもつ心構えが監査実施に際しての監査人の姿勢または態度であるのに対して、監査証拠の批判的な評価が監査を実施することそのものであるからである。監査の実施の大半が監査証拠の入手とその評価であることから、監査人の監査実施の姿勢・態度に関する論述と、監査手続の実施によって入手した監査証拠を評価することに関する論述が重複してしまうことはある意味致し方ないことかもしれない。
 鳥羽教授の主張する「外に向かって働かせる職業的懐疑心」が、「経営者の陳述を鵜呑みにしない」ことや、経営者は誠実ではないと疑うこと(経営者を「疑ってかかる姿勢」)ではなく、入手すべき・入手した監査証拠を「疑う」ことであり、「疑ってかかる姿勢」を強めて監査証拠を評価することであれば、鳥羽教授の所説は、私見の「疑問をもつ心構え」と大きな相違はなさそうにすら思われる。その相違は、「疑う」と「疑問をもつ」という用語の違いにしかないのかもしれない。そうであれば、やはり、他者(証拠)のみでなく、自分に対しても「疑う」ことをも包含する職業的懐疑心を一生の生業の理念的基盤に位置付けたくない。

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